ありがとう、阿部慎之助 巨人軍最高の捕手。

巨人の阿部慎之助選手が引退した。

 

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※私がこれを書いたのは阿部選手の引退特別試合直後で、今となってはまた別の感情が出てきているのと、当時興奮のまま書いたせいであまりにも拙い文章になってしまっていたので迷いましたが、なんとなく備忘録として投稿することにしました。戯言と思ってくだされば幸いです。

 

 

同世代の多くにとってそうだと思うが、私にとって読売巨人軍阿部慎之助のチームだった。

私に関して言えば、阿部慎之助は野球そのものの象徴だったのかもしれない。

今回彼が引退するにあたって、阿部選手にまつわる私の備忘録をここに示そうと思う。

 

気づいたときには、野球が好きだった。小学1年生の頃、松井秀喜選手が好きだったために、弟が生まれると聞いて「マツイという名前をつけたい!」と駄々をこね、母を困らせたことを覚えている。もっとも、ただ雰囲気でそう言っていただけで、野球のルールなどほとんど分かっていない状態だった。

 

本格的に野球にハマったのは、WBCが開催された2006年前後だ。学校を休みがちだった私は、休むたびに祖父母の家に預けられ、祖父とメジャーリーグの中継を見ていた。そうしてルールを覚え、新聞のスポーツ面を見ていると、なぜかは覚えていないがごく自然に巨人を応援している自分がいた。(なお、この年の巨人は非常に弱く、首位と20ゲーム以上の差をつけられ4位だった気がする。違ったらすまん)

 

その頃、阿部選手は既にチームの中核を担っていた。既に20代後半、若手とは言えない年齢だ。チームに欠かせない扇の要、そして打席での期待値が高いバッター。その頃の私には、捕手の守備負担の大きさなど当然理解できていなかったのだが、ピッチャーが投げたボールが阿部選手のミットに吸い込まれていくさまや、ラジオから流れる阿部慎之助のコールに胸を躍らせていた。それから数年間、2007年からはキャプテンとしてチームを引っ張りながら、ガタイの大きな一流選手たち(この頃から2012年あたりまでの巨人は今とは比べ物にならないほど補強組が活躍しており、まさに大正義巨人軍といえた)が並ぶオーダーに名を連ね、ピッチャーを支え、先導する。子どもながらに、彼が打席に立つと毎回期待していたし、リードや壁性能に関しても絶大な信頼を寄せていた。小笠原、李、ラミレス、谷、二岡、鈴木、木村、内海、杉内と、憧れた選手は数多いが、存在感という点で阿部選手の右に出る選手はいなかった。

 

自分の中の巨人ファン、そして阿部選手のファンというアイデンティティに大きく影響するため、ここで私が育った街や家庭について説明する。簡潔に言えば、私の故郷は街をあげてゴリっゴリのカープファンだ。そして、アンチ巨人である。(私の家にはテレビがないのだが)祖父母の家に夕方行けばかなりの確率でカープの試合が流れていたし、商店街やそのへんのスーパーでカープの音楽が流れている。本屋にはカープコーナー、巨人ファンを公言しようものなら金満球団と(なぜか私が)糾弾される。祖父母や母は巨人が負けるたびに大喜びしていた。そんなところで育った。

 

巨人の試合をテレビで見られる日は多くなかった。ほとんどがカープの中継だし、そもそも祖父母にチャンネルを変えられる。そんな中で、ラジオや新聞は私のオアシスになった。はじめは特定の選手ではなく球団そのものを応援していたが、感情的になりやすい子どもだったので、球団において絶対的な信頼感のある阿部選手の応援にはわかりやすく熱が入ったし、どんどん彼のことが好きになっていった。ラジオを聞きながら大好きな阿部選手の勇姿を想像し、次の日の新聞でその姿を確認するのが日課だった。阿部選手が活躍して勝った試合の新聞はこっそり切り抜いていたし、勝った相手がカープだと家庭内で非常に誇らしく感じていた。

 

土地柄、巨人ファンを公言すると白い目で見られる。それは学校でも同じである。ほとんどがカープファンで、数えるほどのホークスファンがいるという環境だ。巨人ファンは当然異端だった。それでも巨人が好きだった。その頃は思い至りもしなかったが、私が心変わりしやすい子どもの時期にありながら、頑なに周囲のカープファンやホークスファンからの誘惑を断り、一途に巨人が好きだったのは、阿部選手の存在があったからだろう。考えてみれば、野球賭博問題の時をはじめとして、どれだけ意志が揺らいだときであっても、阿部選手へ当時の私が寄せていた絶大な信頼感と、新聞を切り抜くほどの情熱が強い支柱となって折れなかったのである。

 

忘れもしない、高校1年生の春のことだ。母親が突然、野球観戦に行こうと言い出した。マツダスタジアムの一番安い内野席。 周りはカープファンだらけというが、観戦グッズを一切持っておらず、そもそも観戦歴のない私には関係のない話だった。ずっと行きたいと言い続け、そのたびに却下されてきた野球観戦へ行ける。観戦は8月だったが、数か月前からわくわくしていた。選手から遠い席だとはわかっていたけれど、当時携帯電話すら持っていなかった私は、小学校の卒業祝いで貰ったデジタルカメラメモリーカードを新調して、その日を心待ちにしていた。

そして、1回表。阿部選手は、4番キャッチャーで先発出場、3番の村田が塁に出たため、さっそく打席が回ってくる。テレビや新聞でずっと見続けていた、あこがれの選手の登場に興奮しながら、野球のルールを知らない妹に、4番は1番強い打者なんだよ、と雑な説明をする。彼がバッターボックスに入る前から動画を撮っていた。阿部選手の豪快な一振りに快音が響き、ボールがスタンドへ運ばれる。まさか、あこがれの選手を現地で応援する初打席で、彼のホームランを見られるとは。興奮し、ぶれてしまった映像は今でも私の宝物だ。

その時の先発のバリントンと相性が良かったのか、その日の阿部選手は6回表の第3打席でもソロホームランを放った。試合自体も、好投を続けていた杉内選手が中盤に打ち込まれて勝ち越しを許し、9回にロペスが起死回生の同点ホームランを放ちそのまま同点、という面白い内容だった。

初観戦を経て、巨人や阿部選手がもっと好きになったことは言うまでもないだろう。

 

捕手で4番でキャプテン。阿部選手の伝説は、様々な数字や獲得タイトル、ゴールデングラブ賞ベストナインの選出歴から見て華々しい。後世、この時期の野球を全く知らない野球ファンでさえ、阿部選手が打ち立てた数々の記録さえ見れば、どれだけ偉大な選手であったかはすぐにわかるだろう。しかし、この時代に野球を見て、阿部選手のプレーをリアルタイムで楽しみ、感嘆できたことは私にとって永遠の誇りである。

 

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阿部選手が引退を決意したのは、今年のセントラル・リーグ優勝翌日のこと。あの雨が降る神宮で原監督と話したらしい。

私は、優勝直後の2連戦を見に行っていた。ビールかけの二日酔いか、雨の中ボコボコに打たれる巨人軍も、翌日阿部と大城の連続ホームラン、そして新しい4番・岡本の完璧なホームランも目の当たりにした。2日目はバックネット裏の席で、大好きな阿部選手のホームランを迫力満点の席から見ることができたと、相当はしゃいでいた。

6月に阿部選手が通算400号のホームランを打ったとき、もしかしたらこれでやめるかもしれない、と思ってしまった。しかし、7月頃に阿部選手の現役続行の記事を見て、その可能性は無意識に頭の中から消し去っていた。捕手はもうやらないかもしれないけれど、来年からは代打で魅せる彼のプレーを見ることができると信じていた。

だから、あの日神宮球場のバックネット裏で阿部選手のホームランを見たとき、無邪気にはしゃぎながらタオルを振ることしかできなかったのだ。もっと噛み締めて見守っていたかったという想いがある。彼自身は、きっと万感の想いを抱いてダイヤモンドを一周していたのだろう。

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阿部選手の引退を知ったときの感情は覚えていない。ショックというよりも焦りのような感情が一気にきたことを覚えている。幸いホーム最終戦のチケットを手に入れていたので、引退特別試合をただ目に焼き付けたいと思った。

引退特別試合のことも、ほとんど覚えていない。いつにもまして声を張り上げ、Septemberを熱唱し、千両役者である阿部がライトスタンドにストレートを叩き込んだときは絶叫した。今季引退したマシソンと阿部というレジェンドバッテリーも、澤村との握手も一生忘れない。

 

阿部選手にまつわる、私の思い出は以上の通りである。一方的にたくさんのものをいただいた。返すことはできやしないのだが、せめて、これから先監督としてチームを背負うであろう彼を応援し続けたい。

 

打席に立つだけで盛り上がる選手だった。単純に東京ドームに響き渡る慎之助コールを聞けなくなることは寂しい。

来年から阿部選手がいなくなった巨人をこれまでと同じように応援できるのか、それはこれまでになかったことだからわからない。しかし、阿部選手が巨人に残していったものは数え切れない。それらを例示する無粋なことはしないが、きっと来年以降も私たちファンを魅了し、多大な貢献をしてくれるだろう。だから、私は来シーズンが楽しみだ。

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阿部選手、お疲れ様!

そしてありがとう!

 

Do you remember 

the 21st night of September? 

Love was changing the minds of pretenders 

While chasing the clouds away